加速する夏

感想、創作

「愛の不時着」を見習えなんて、日本のテレビに言えるワケがない

「愛の不時着」をついに見た

海外ドラマ、洋画は見るがそれ以外は食わず嫌いをしていたが、評判の高さについに「愛の不時着」を見た。初めて見た韓国ドラマだった。

それまでの韓国ドラマへのイメージは小学生の頃から止まったままだった—すぐ記憶を失くすベタな恋愛が繰り広げられ、日本のヒットドラマのリメイクも多い。長く侮っていた。

それでも視聴を決めたのは、「愛の不時着」の評判の高さだった。その評判通りだった。

 

性規範を克服した表現

 食わず嫌いがこの作品を見るきっかけになった評価というのが「性規範をあてはめていない」というものだった。

 その評判に恥じず、30代女性経営者、ユン・セリが「好きな映画はマッドマックス怒りのデスロード」と言った時点で先の長いドラマを信頼して視聴できた。彼女が独身でも、周囲に厳しくても「女性のくせに」のような表現が一切ない。それを主人公に据えてドラマを作れる韓国テレビ業界がただただ羨ましい。

なぜなら、お盆の週末日曜日にキー局が昭和の2時間ドラマをリメイクして放映していた。「女の敵は女」「女の醜い嫉妬」みたいなジェンダーステレオタイプありきのドラマでうんざりしたばかりだからだ。

有名女優2人を主演に迎えて描いたものがシスターフッドではなく、ジェンダーステレオタイプを娯楽化し消費することだとは、もはや驚きも失望もしない。期待してないから当然だ。

 

近年では、女性同士の協力、協同を描いたシスターフッド作品が多く制作されてきた。日本でもヒットした作品には、「アナと雪の女王」「オーシャンズ8」などがある。シスターフッドは単なる「流行り」ではない。ジェンダーステレオタイプや女性蔑視によって不可視化されていた本来の女性同士の関係性が文字通り、ようやく日の目を見たのだ。

「愛の不時着」でもシスターフッドが様々な場面にちりばめられている。セリがリ・ジョンヒョク大尉の婚約者と偽って滞在していた村の主婦たちがそれだ。最初は従来のような「主婦は嫉妬深くてゴシップ好き」というステレオタイプかと思ったが、それに終始するのではなく最終的には誰かが危機に陥れば助け合うシーンの方が多かったように思う。

「ご近所の噂話ばかりする中高年女性」の表象はいまだに氾濫している。この作品では、それはあくまでも彼女たちの一部に過ぎずむしろ、北も南も住人は同じ人間だというメッセージ性すらも込めてしまった。差別や蔑視を助長する表現はそれ以上のメッセージを含むことはできない。差別、蔑視のためだけの表現という不純物が混入していない純度の高いエンターテインメントが「愛の不時着」だ。純度が高まると、必然的にクオリティも高まり評価や支持も広がる。そうして純度の高い良作が生まれる正の連鎖が始まるのではないだろうか。

 

日本のテレビは「愛の不時着」を見習え?

 では、日本のドラマはどうだろうか。不純物を取り除き純度を高めて良作誕生の正の連鎖に組み込まれているのか。

日本のドラマが海外ドラマのようなクオリティが期待できないのは予算が低いからだと言われてきた。しかし、ネットフリックス・ジャパンがその予想を蹴散らした。予算を十分にかけたところで、ホモソ丸出しの「全裸監督」にファッションフェミニズム(笑)作品「FOLLOWERS」しかできないと証明されてしまった。

 

では、クオリティの高い作品をリメイクする方法はどうだろうか。

これも今期のドラマ「ミッドナイトランナー」が希望を打ち砕いた。第1話目に警察学校生の主人公らが隣家を半日覗きをしてお咎めなし、という脚本を披露したのだ。さらに酷かったのが、その学校生が被害者女性を「人妻」「未亡人」と性的客体化をしていたことだ。性加害に女性蔑視、これらを表現するなと言いたいのではない。特に性犯罪を矮小化、娯楽化する表現を野放しにするなと言っているのだ。性犯罪は、殺人や強盗などほかの犯罪と比べ、加害者を絶対悪とするコンセンサスが得られていない。そのあるべき社会の共通認識の形成を阻害するような表現は畢竟、性犯罪だけでなく二次被害をも助長する。

つまり、リメイク側が偏見まみれではせっかくの素晴らしい作品も無駄になる。猫に小判、豚に真珠ならぬ「日本の製作者に韓国ドラマ」だ。

ジェンダーステレオタイプを克服できていないどころか、自覚すらないとしか思えない日本のドラマ制作者たちに「愛の不時着」を作って!と期待するだけ無駄なのではないだろうか。それを確信させる出来事があった。

 

テレビ業界の浄化能力の欠如

 情報番組のコメンテーターなどを務めるタレント、モーリー・ロバートソン氏が先日Twitterで、今後はテレビ番組収録中の差別発言は許さないと宣言した。この方針表明それ自体は歓迎するが、一介のタレントがクビ覚悟でせざるを得ない状況は、テレビ業界にはもはや「差別を許さない」という当たり前のことすら遂行されない自浄能力の欠落を意味しているのではないか。

「差別を許さない」という方針は、本来ならばテレビ局側や制作側が出演者に対し徹底するものであり、出演者がクビ覚悟で発信するものであってはいけない。しかも、ロバートソン氏は業界から干される覚悟でことにあたると言及している。「差別を許さない」と言うと仕事を干される業界だとも暗に示されている。これは「タレントから視聴者への」最後通牒にほかならない。差別を容認し野放しにするメディアを支持しますか、と。

自浄能力、つまり差別表現を自浄する機能が損なわれた組織に未来を期待できるだろうか。これから発言権を持っていく若手社員らのジェンダー観のアップデートなど期待したところで無駄だと思えてくる。浄化装置を取り付けるにはまず、浄化が必要なほど汚れていると認識する必要があるのにそれがない。むしろ、その汚れを養分にして肥え太ってきたからだ。

 

「愛の不時着」を見習えなんて、日本のテレビに言えるワケがない。