加速する夏

感想、創作

テレビ嫌いが「水曜どうでしょう」に感動した話

 

 

Netflix配信中の「水曜どうでしょうClassic」全13シリーズを視聴しての感想です。

 

 

テレビを見なくなって早7年がたった。ここ2年はテレビなし生活で不自由なく暮らしている。テレビ離れのきっかけは大学受験だったが、進学後もテレビを視聴する習慣は戻らなかった。映像コンテンツは動画配信サービスで主に海外作品を視聴するので十分事足りていた。

 

テレビと決別することになったのは、それだけではない。テレビコンテンツとの価値観の相違に耐えられなくなったからだった。単につまらないだけでなく、外見いじりや女性蔑視がひどく不愉快だからだ。テレビから離れている間に私の価値観はアップデートを重ね、人権意識が本格搭載された一方で、テレビにはそれがほとんどなかった。海外コンテンツに浸っていたのも日本の旧態依然とした価値観のいびつさを際立たせていた。実家で久々にテレビ番組を視聴すると、とにかく気に障って仕方がなかった。

たとえば、「女は嫉妬深い」「女同士は陰湿ないじめがする」といった現実と反する女性へのステレオタイプを前面に出した「女の敵は女」ドラマを垂れ流したり、途上国でボランティアする30歳女性を訪ねたタレントが「結婚して子供産んでほしい」と言うのを「優しさ」として感動的に放映するのを見て2020年にもなって虫唾が走らない方がおかしい。

 

コンテンツや機能で劣り、差別発言で仕事を広げる国際政治学者のCMでAmazonプライムに見切りをつけ、Netflix一本に絞った私は何気なく「水曜どうでしょう」の視聴を始めた。見たい衝動は特になかった。気まぐれ以外の何物でもないことだけは確かだった。伝説的番組という評判だけは知っていた。

 

度肝を抜くおもしろさ。

私が生まれた前後に制作されているのにまさに「色褪せぬ」おもしろさだった。

何よりも驚いたのが私がテレビから距離を置く決定打になった不愉快さがほとんどなかったことだった。タレント2人、ディレクター2人の男4人でのロケだがホモソーシャルなノリが一切ない。女性を品定めしたりトロフィー扱いすることも、妻子持ちが独身男を非モテいじりしない。予算や企画の内容上女性が登場しにくいのもあるが、ユーコン川カヌー回の日本人女性ガイドを変にもてはやしたり結婚歴を尋ねたりせず、ほかの出演者同様イジる様子は感動さえ覚えた。

 

「どうでしょう」のおもしろさには懐かしい既視感を覚えていた。中高の別学時代の思い出と重なるからだ。そこでは異性からの「モテ」という評価は介在せず、性別も評価の要素にはならず、人間個人としてのあり方がすべてだった。「どうでしょう」のメンバーもまさに個人で勝負していた。

性別や容姿など生まれ持った性質への過剰なイジりなしに生まれる笑いの純度の高いおもしろさが「どうでしょう」なのだ。

 

「どうでしょう」に驚いたのはこれだけではない。

彼らはYoutuberのパイオニアかつ、タレント活動するゆるキャラのパイオニアだったことだ。

「どうでしょう」の適度に低予算で、ずさんで破天荒で体を張った企画はYoutuberのそれである。電気屋で買えるハンディカムで撮影し編集するのもYoutuberだ。

これからわかるように、20年以上前の笑いが今でも通用するということは、つまり普遍的な笑いやおもしろさは存在するということであり、それは誰をも傷つけない笑いなのだ。「セクハラ言われちゃ何もできない」という言説がいかに欺瞞に満ちているかわかる。

 

ゆるキャラのパイオニアは「onちゃん」のことだ。

ご当地ゆるキャラブームで着ぐるみとしては異例な「しゃべる」「激しく動く」「変形する」といった特徴を持ったキャラが多数現れた。

元祖はonちゃんなのではないだろうか。機敏に動き、伸縮し笑いをとる。すべての奇抜なゆるキャラonちゃんに通ず。 

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『シェフ大泉 夏野菜スペシャル』(1999年8月25日~9月29日放送全4回)より第2夜



「どうでしょう」の名物企画「サイコロの旅」は、私が生まれた前後の日本の移動手段を知ることができる資料としての価値もある。

今はフェリーは主要都市を結ぶくらいしか存在していないので、船旅好きは嫉妬で狂いそうになった。

寝台列車も同様に羨ましかった。嫌々乗るんじゃない、大泉。寝台列車には寝台でない1番安い座席の車両もあったのが知ることができたのは収穫だった。中国の寝台列車みたいでやっぱり嫉妬した。私はわざわざ大陸まで乗りに言っているのに?もっと楽しそうに乗れ、大泉。

深夜バスの車内も興味深かった。カーテンがあったからだ。カーテンでプライバシーを保てるバスなんかパキスタンビジネスクラス長距離バスしか乗ったことない。と思ったが単に私が乗った長距離バスが安すぎただけらしく、ググったらカーテン付きバスはいっぱいあった。

 

「サイコロの旅」は移動に時間がかかるからこそ成立していた。新幹線とLCCで短時間に長距離移動できる現在では、路線バスでサイコロの目だけ進んで終点を目指す企画になっているのも致し方ないのかもしれない。移動時間の短縮と反比例して増長するノスタルジーについては、ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行の歴史』を一読していただきたい。

鉄道旅行の歴史 〈新装版〉: 19世紀における空間と時間の工業化 | ヴォルフガング・シヴェルブシュ, 加藤 二郎 |本 | 通販 | Amazon

 

 

ただ、ひとつ申し上げておきたいのは、すべてを手放しに称賛しているわけではないことだ。ご当地名物を嫌そうに大食いしたり、あげく吹き出したりもどしたりするのは言うまでもなく、褒められない行為である。食べ物で遊んではいけない、粗末にしてはいけないよいうコンセンサスは一応あるので注釈を付けろとまでは思わないが、不快さは否めない。

もう一点、行き先を告げずに海外に連れ出し、東南アジアのコウモリのいる洞窟に入っていくのも、事前に狂犬病ワクチンを打ってあったのだろうか。打つべきだし、出演者にも視聴者にもコウモリが死に至る感染症を媒介する危険性を説明すべきだ。私は海外バックパッカーなので、彼らのように適度にずさんで行き当たりばったりな旅をするしその楽しさも理解しているが、冒険と無鉄砲を履き違えてるのは本末転倒であり、命取りである。